【第2弾 フィレンツェ】3都市完全制覇!姉妹旅行inイタリア
みなさん、こんにちは。
『美学の時間』管理人の鈴です。
さて今回は、【第2弾 フィレンツェ】の旅の模様をお話したいと思います。
フィレンツェ
フィレンツェとは?
イタリア共和国中部にある都市です。
その周辺地域を含む人口約38万人の基礎自治体となります。
トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都です。
英名由来のフローレンスで呼ばれることもあるようです。
中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配しました。
メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となりました。
市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されています。
1986年には欧州文化首都に選ばれました。
歴史
フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されましたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者への
土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによります。
中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配しました。
次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、1115年には自治都市、13世紀に共和制となりました。
フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めました。
1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリと皇帝党のビアンキによる内乱がはじまりました。
内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、
フィレンツェから追放されることとなります。
この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残しているそうです。
このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していたようなので街の盛り上がりは凄まじかったことが分かりますよね。
その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になったのです。
そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していました。
もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していたとのこですから凄いですよね。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手しました。14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしましたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にしたのです。
1410年にジョヴァンニ・ディ・ビッチはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、ピサ教会会議の対立教皇アレクサンデル5世が
急死すると、ヨハネス23世を対立教皇に据え、メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げました。
1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放されました。
ですが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となったのです。1439年、フィレンツェ公会議。1464年のコジモの死後は、その子ピエロにその権力を継承しました。
孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えました。
ロレンツォ・イル・マニーフィコとよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめました。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになったのです。
フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配しました。
建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いたのです。
教皇シクストゥス4世がメディチの特権を取り消し、1478年にロレンツォと弟ジュリアーノが襲撃されたパッツィ家の陰謀でメディチ家の打倒が図られましたが、暗殺者らと陰謀に加担していたパッツィ家は捕らえられて処刑されました。
同年、シクストゥス4世はスペイン異端審問を許可し、ユダヤ人商人への借金が多かったフェルナンド2世は異端審問によって社会的に抹殺することで債務を帳消しにしていったのです。
翌年に計画の首謀者とされたピサ大司教が殺害されると、教皇庁とフィレンツェとの間で2年間の戦争が勃発しました。
1482年にシクストゥス4世は、ヴェネツィア軍によるフェラーラ公国への攻撃を計画したようですが、ミラノ公国のスフォルツァ家、フィレンツェのメディチ家、アラゴン朝ナポリ王国が阻止に動くと、翌年にはヴェネツィアへ禁令を発しました。
1484年8月7日に「バニョーロの和議」が締結され、8月12日にシクストゥス4世の薨去が発表されるまで、この混乱は続いたのです。
ホテル
とっても可愛い空間で、居るだけでテンションの上がるようなお部屋でした。
ベネチアのホテルにも言えることですが、とにかく何もかもに統一感があって、不自然さが全くありません。
そしてこのホテルにはちゃんとドライヤーがありました…
ここも朝食は無料で7時〜10時の間!
豪勢ではありませんが、海外らしい美味しい食事。
ベネチアからフィレンツェへの移動は、日本で言う新幹線のようなものに乗って移動しました。
私たちの指定の席に違う方が座ってしまっていたというアクシデントもありましたが、無事到着出来てよかったです。
車内が綺麗だったのでそのお写真も。
観光
そして、街歩き〜石畳でとっても素敵です。
「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」
大迫力です。
お昼の太陽に照らされている聖堂はもちろん素敵ですが、夜の聖堂も素晴らしくロマンチックで是非両方見てみて下さい!
そして「メディチ家礼拝堂」へ。
これまた、外観はとても素朴な作りなのですが、中は本当に豪華で圧倒されるとはこのことかと感じました。
一般市民からの反感をなくすために外観は素朴に、ですが中身はとんでもなく豪華に造られたとのことです。
とても賢い方だったんだなとこのエピソードで感じられますよね。
写真でも十分美しいですが、これは実際に自分の目で見て感じて欲しい!と心の底から思います。
メディチ家の凄さが身にしみて感じますよ!
その後お腹も空いてきたことなので、ランチへ。
カルボナーラとまたまた生ハムメロン。
とってもとっても美味しかった…
食後にジェラートを!
これまた美味しいし、店員さんも素晴らしく優しく陽気さんでした。
「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」へ!
その後街をふらふらしながらホテルへ。
今日も歩き回り疲れ果てていたので、夜ご飯も食べる気力がなくすぐにお風呂に入り就寝。
早朝散歩がてらに、ヴェッキオ橋を渡り、ミケランジェロ広場へ。
朝の空気はまた澄んでいて、とても気持ちの良い時間を過ごすことが出来ました。
早朝に行くことをおすすめします!!
そして念願の、ウフィツィ美術館へ!!
もう素晴らしかった…もう一度行ってゆっくり見たい!!
ちゃんと本も購入して、日本へ帰ってから見返す楽しみが出来ました!
まとめ
フィレンツェの街も歩き周り、大満足です!
ベネチアとはまた違った雰囲気で、魅力が満載なフィレンツェ。
大好きな街になりました!
次回は最終、ローマ編です!
その後も、旅について(wifi契約や、現地でのお得パスチケット等)の情報もお伝え出来ればと思いますので
是非ご覧下さいね!!